2012年10月/日々雑感:よくわからないこと?!

2012年10月

日中の「経済交流は国交回復以前の状態」

 先日、中国の地方政府関係者から連絡が有り、「経済交流は国交回復以前の状態」との発言があった。

「国交回復以前」とは穏やかではない表現で、かなりの衝撃だった。しかし、中国側でも日本と何らかの関係を持っている人たちは、(表向きには政府の意を受けた発言をしなければならないとしても)今回の尖閣問題の影響について危機感を持っているということだろう。また、これが「経済交流」だけに限ったことでないのは明らかだ。中国地方政府(特に沿海部)が行う日本企業向けの行政サービスにも影響がありそうで、一部業務の休止ということも検討がされる可能性もあるかもしれない。

問題は、野田首相をはじめ日本の政治家には全く危機感がないことです。日本側から出てくることは、逆に、中国側を刺激することばかりです。玄葉光一郎外相の会見では、アジア欧州会議(ASEM)首脳会議の際に、「法の支配、平和的アプローチは大変重要な観点だ」とも述べ、南シナ海で領有権問題を抱える東南アジア各国などとともに、中国の海洋進出に自制を促す考えを示した、とのこと。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121031/plc12103112590004-n1.htm

これでは、先の国連総会で、野田首相が行った演説と同じで、また中国を挑発することにもなりかねません。
中国側の主張を全く理解できていないことも非常に憂慮されます。
 
尚、経済についてのみコメントするとすれば、個々人のベースでは、日本に対して特段のイメージを持っていなくても、国全体の方針と異なる行動をとるのは一般的には難しくなってしまう。
先日(10月19日)のレコードチャイナの調査では、尖閣問題が今後の日本車購入に影響を与えるかという問いに、60%が「はい」と回答している。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=65678
 
既に、日本企業が数多く中国には進出しており、すぐに撤退ということもかなわない状況で、今あるものは何とは続けていかなければならないでしょうが、
新規に何かを行うということは、基本、すべてがストップしそうです。
製造業などでは、バングラデシュやミャンマーなどが注目されていますが、産業インフラということを考えると、多くの企業が進出するにはまだ多少時間がかかりそうです。
最近は、製造業よりも、サービス産業が、国内市場の縮小を受けて、消費市場としての中国に進出し始めていますので、中国人の消費行動の変化は大きな影響が出そうです。
 
以下、関連記事を添付します。日本に「思い知らせるには長い時間が必要」との発信も出ています。
 
<尖閣問題>それでも日本車買えますか?25%が「不安」と回答 (レコードチャイナ 10月19日)
 
・中国自動車工業協会発表の9月期自動車販売台数によると、日本車は前年同月比マイナス40%という大きな落ち込みを見せている。
・重慶晨報は北京、上海、広州、西安、重慶、成都の6都市で調査を実施、尖閣問題が今後の日本車購入に影響があるかとの質問には約60%が「はい」と回答。不安に感じるとの回答は約4分の1。
・ただ、今後は日本車を購入する人が増えるだろうとの回答も63%に達している。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=65678
 
<尖閣問題>日本経済にどんな影響を及ぼすのか、思い知らせるには長い時間が必要 (レコードチャイナ)
 
2012年10月28日、日本の9月の貿易総額が過去30年で最低の水準となったことを受け、中国国防大学戦略研究所の金一南(ジン・イーナン)所長は「中国と対立するとどういうことになるのか、日本に思い知らせるには長い時間が必要だ」と論じた。中国広播網が伝えた。
 
金氏は、尖閣諸島(中国名・釣魚島)問題が日本経済に重傷を負わせたとの見方が広まっていることに対し、「日本の『国有化』が中日関係の基礎を崩した。しかも、日本はいまだにそれを認めようとしない」と非難した上で、「中国との対立が自らにどれほど大きな損害を与えるのか、日本に心の底から思い知らせるには長い時間が必要だ」と指摘した。
 
また、金氏は日中関係悪化の影響は政治、外交、経済、人の往来など多方面に及ぶとした上で、「痛手を受けた日本がどこまで悔い改めるのか。われわれは客観的かつ冷静に見ていく必要がある。それには、わずか1~2カ月では短すぎる。隣国とのいざこざが自国の経済や発展にどれほど大きな影響を与えるのか、じっくり時間をかけて日本の政治家の目を覚まさせるべきだ」との見方を示した。
http://news.livedoor.com/article/detail/7091141/

【Crossroad誌:掲載記事】 『凪』(星野有紀)(2012年10月号)

 【Crossroad誌:掲載記事】 『凪』(星野有紀)(2012年10月号)

日本語と中国語のバイリンガル・マガジン『Crossroad誌』本年10月号に以下の記事が巻頭エッセーとして掲載されましたのでご紹介させていただきます。

毎月このような形で同誌の『巻頭エッセー』として、日本の若手アーティストを紹介する記事を書かせていただいております。同誌は、中国の華南地方(主として 広東省と香港)を中心に、ビジネス情報を主体としてはいますが、文化や芸術等様々な情報を発信している雑誌です。編集部は、広東省・深圳市にあります。

今回は、「星野有紀」さんの『凪』という作品です。

作品タイトル:『凪』

120919_凪.jpg

 

コメント:
 
私たち人類が鳥のように翼をつけたり、あるいは風のように、自由に空を飛びまわることを夢見るようになったのはいつ頃からでしょうか?それは多分私たち人類が誕生して間もないころでしょうし、文字が誕生するよりもかなり前でしょうから、歴史が記録されるようになるはるか昔ということになるでしょう。
 
世界中どこに行っても、神々は空高く天空に住み、そして私たち人類は地上に暮らす、と古来から考えられてきました。それゆえ、神が住む天空に近いところを自由に飛び回る鳥は古来神の使いとも言われてきました。先日訪れた中国四川省の三星堆遺跡は今から4000年~3000年前の長江文明の中心となる無文字文化の遺跡ですが、その遺跡からは青銅製の巨大な「神樹」あるいは「宇宙樹」なるものが発掘されています。それは樹座の上に樹幹が置かれ、その樹幹には3層の枝があり、その枝には神の使いたる鳥たちがとまっています。これはまさに先の「天空」と「地上」の間に「人」が存在するという「天・地・人」を表したものでしょう。
 
翼をつけて空を飛ぶと言えば、聖書などに登場する「天使」が思い浮かびます。新約聖書のマタイやルカの福音書に登場する「受胎告知」の場面がやはり一番知られているでしょう。そこでは、処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってイエスを身ごもることを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる場面です。天使は、キリスト教やユダヤ教などで、神の「使い」とされていて、一見、男性のような姿をしていますが、聖書では男性・女性といった概念は存在しないそうです。
 
しかし、東洋で西洋の天使に相当するものといえば、仏教などの影響を受けた「飛天」で、これは、仏さまの周囲を飛行遊泳し、礼賛する「天人」のことです。しかし、この天人は、西洋の天使と違い翼をもっていません。そして、多くは「天衣」をまとった女性像として描かれるため「天女」と呼ばれています。法隆寺金堂内陣壁画の飛天図は有名で、その姿は大変自然で優美なものです。
 
さて、本作品ですが、単細胞の私であれば、「飛翔」「飛天」「翼」などというタイトルをつけてしまっていたでしょう。描かれている少女には「翼」の「天衣」もありませんが、その両手に軽くまかれたレースは天から与えられたかのようです。しかし、少女の表情には何の恐れも不安も感じられません。それどころか、何か確固たる自信のようなものが感じられないでしょうか?もはや、少女には天から与えられたレースさえ必要ないでしょう。
「凪」という本作品のタイトルは、この少女の心の状態が大きく変化・成長したところをとらえたものなのかもしれません。
 
略歴:
 
1988年 栃木県生まれ。
現在: 筑波大学大学院芸術専攻博士前期課程在籍。
 
2010年 第64回二紀展入選

 

【Crossroad誌:掲載記事】 『出会い』(小林美佐子)(2012年9月号)

 【Crossroad誌:掲載記事】 『出会い』(小林美佐子)(2012年9月号)

日本語と中国語のバイリンガル・マガジン『Crossroad誌』本年9月号に以下の記事が巻頭エッセーとして掲載されましたのでご紹介させていただきます。
 
毎月このような形で同誌の『巻頭エッセー』として、日本の若手アーティストを紹介する記事を書かせていただいております。同誌は、中国の華南地方(主として 広東省と香港)を中心に、ビジネス情報を主体としてはいますが、文化や芸術等様々な情報を発信している雑誌です。編集部は、広東省・深圳市にあります。 
 
今回は、「小林美佐子」さんの『出会い』という作品です。
 
作品タイトル:『出会い』
 

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コメント
 
小林さんの作品『出会い』で、もう何十年も前に教科書で読んだ菊池寛の短編小説を思い出した。
その昔、摂津の国に、中村新兵衛という侍大将がいた。彼は「槍中村」と呼ばれ、その三間柄の大身の槍の鉾先で、さきがけ殿の功名を重ねていたが、彼の「火のような猩猩緋の服折と、唐冠䋝金の兜」の姿は、戦場の華であり敵に対する脅威だった。ある日、彼が守り役をしていた主君の側腹の子から、初陣に手柄を立てたいと頼まれ、その服折と兜を貸してしまう。側腹の子は見事一番槍として手柄を立てる。しかし、黒皮縅の鎧に南蛮鉄の兜をかぶった中村新兵衛が二番槍として乗り込むと、敵の様子はいつもとは全く違っていて、彼は敵の付きだした槍に脾腹を突かれる・・・という話だ。
中村新兵衛自身も、服折や兜は自身の「形」だと言っていたのだが、彼の考えるその「形」と「実」と、敵が考えていた形と実とは全く異なるものだったということだろう。
 
人で考えた場合に形は多分「身体」ということになるのだろう。すると形に対するものとしての実は何のことだろう。多分、「精神」ということになるのだろう。この「身体」と「精神」との関係はその人にとってどのようなものだろうか?また、「身体」と「精神」はそれぞれ独立して存在することが出来るのだろうか?
 
この『出会い』では、中村新兵衛の服折や兜のように、「身体」にナース服やメイド服をまとっているが、これらをまとった時に、「身体」はどのように変化するのだろうか?あるいは変化しないのだろうか?その時、「精神」は変化するのだろうか?また、それらは人によってすべて異なるのだろうか?あるいは、衣服をまとわないで裸の状態だったらどうなるのだろうか?
 
自身の他に他者が存在する場合に、これらはどのようになるのだろうか?本作品では2人の少女の背景に大きな木のようなものが描かれているが、「出会い」が生じた場合に、この木のように新たなものが生まれるのだろうか?そして生まれるものとはいったい何なのだろうか?
 
また、「身体」を考える上で、「精神」(作者は自己意識と呼んでいる)はどのような存在なのだろうか?この作品を見ていると様々なことが浮かんできて、「私」「自身」の「身体」や「精神」という存在そのものがどのようなものだかわからなくなってしまう・・・
 
略歴
 
1985  神奈川県生まれ
2009  女子美術大学絵画学科卒業 
2011  女子美術大学大学院美術研究科版画領域修了
 
個展
 
2009  Zainul Gallery ダッカ バングラデシュ
2010  「小林美佐子個展-memory-」(カフェ フランジパニ:東京)
     「小林美佐子個展-記憶の断片-」(gallery forest:東京)
2012  シロタ画廊(東京)
 
グループ展他
 
2008  第33回全国大学版画展買い上げ賞受賞('10年買い上げ賞受賞)
2009  版画協会展入選('10年 賞候補)
     CWAJ現代版画展('10年)
     浜口陽三生誕100年記念銅版画大賞展準グランプリ受賞
    卒業制作作品JAM買い上げ賞受賞
2010  大野城まどかぴあ 版画ビエンナーレ展入選
2011  第11回浜松市美術館版画大賞展奨励賞受賞
     第8回高知国際版画トリエンナーレ
修了制作作品大久保婦久子賞受賞
 

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