【Crossroad誌:掲載記事】 『出会い』(小林美佐子)(2012年9月号)
【Crossroad誌:掲載記事】 『出会い』(小林美佐子)(2012年9月号)
日本語と中国語のバイリンガル・マガジン『Crossroad誌』本年9月号に以下の記事が巻頭エッセーとして掲載されましたのでご紹介させていただきます。
毎月このような形で同誌の『巻頭エッセー』として、日本の若手アーティストを紹介する記事を書かせていただいております。同誌は、中国の華南地方(主として 広東省と香港)を中心に、ビジネス情報を主体としてはいますが、文化や芸術等様々な情報を発信している雑誌です。編集部は、広東省・深圳市にあります。
今回は、「小林美佐子」さんの『出会い』という作品です。
作品タイトル:『出会い』
コメント
小林さんの作品『出会い』で、もう何十年も前に教科書で読んだ菊池寛の短編小説を思い出した。
その昔、摂津の国に、中村新兵衛という侍大将がいた。彼は「槍中村」と呼ばれ、その三間柄の大身の槍の鉾先で、さきがけ殿の功名を重ねていたが、彼の「火のような猩猩緋の服折と、唐冠䋝金の兜」の姿は、戦場の華であり敵に対する脅威だった。ある日、彼が守り役をしていた主君の側腹の子から、初陣に手柄を立てたいと頼まれ、その服折と兜を貸してしまう。側腹の子は見事一番槍として手柄を立てる。しかし、黒皮縅の鎧に南蛮鉄の兜をかぶった中村新兵衛が二番槍として乗り込むと、敵の様子はいつもとは全く違っていて、彼は敵の付きだした槍に脾腹を突かれる・・・という話だ。
中村新兵衛自身も、服折や兜は自身の「形」だと言っていたのだが、彼の考えるその「形」と「実」と、敵が考えていた形と実とは全く異なるものだったということだろう。
人で考えた場合に形は多分「身体」ということになるのだろう。すると形に対するものとしての実は何のことだろう。多分、「精神」ということになるのだろう。この「身体」と「精神」との関係はその人にとってどのようなものだろうか?また、「身体」と「精神」はそれぞれ独立して存在することが出来るのだろうか?
この『出会い』では、中村新兵衛の服折や兜のように、「身体」にナース服やメイド服をまとっているが、これらをまとった時に、「身体」はどのように変化するのだろうか?あるいは変化しないのだろうか?その時、「精神」は変化するのだろうか?また、それらは人によってすべて異なるのだろうか?あるいは、衣服をまとわないで裸の状態だったらどうなるのだろうか?
自身の他に他者が存在する場合に、これらはどのようになるのだろうか?本作品では2人の少女の背景に大きな木のようなものが描かれているが、「出会い」が生じた場合に、この木のように新たなものが生まれるのだろうか?そして生まれるものとはいったい何なのだろうか?
また、「身体」を考える上で、「精神」(作者は自己意識と呼んでいる)はどのような存在なのだろうか?この作品を見ていると様々なことが浮かんできて、「私」「自身」の「身体」や「精神」という存在そのものがどのようなものだかわからなくなってしまう・・・
略歴
1985 神奈川県生まれ
2009 女子美術大学絵画学科卒業
2011 女子美術大学大学院美術研究科版画領域修了
個展
2009 Zainul Gallery ダッカ バングラデシュ
2010 「小林美佐子個展-memory-」(カフェ フランジパニ:東京)
「小林美佐子個展-記憶の断片-」(gallery forest:東京)
2012 シロタ画廊(東京)
グループ展他
2008 第33回全国大学版画展買い上げ賞受賞('10年買い上げ賞受賞)
2009 版画協会展入選('10年 賞候補)
CWAJ現代版画展('10年)
浜口陽三生誕100年記念銅版画大賞展準グランプリ受賞
卒業制作作品JAM買い上げ賞受賞
2010 大野城まどかぴあ 版画ビエンナーレ展入選
2011 第11回浜松市美術館版画大賞展奨励賞受賞
第8回高知国際版画トリエンナーレ
修了制作作品大久保婦久子賞受賞
< 【Crossroad誌:掲載記事】 『ツルコケモモの前で』(寒河江智果)(2012年8月号) | 一覧へ戻る | 【Crossroad誌:掲載記事】 『凪』(星野有紀)(2012年10月号) >