HOME > 新井信介 「京の風」 > 気まぐれ日記 > 玄奘三蔵は、「三日間絶食してスイアーブ(キルギスのイシククル湖畔)行き」を求めた。
こんにちは。
ヌルガズイ君から、信越自然郷に滞在した時の写真が送られてきました。
ただ、うまく、このブログに挙げられないので、
代わりに、玄奘三蔵のルートを挙げます。 これで、位置関係と距離感がつかめます。
キルギスの場所は、下の図の亀慈(クチャ)から出ている矢印の「先」で、そこにある湖がイシククル湖です。その面積は、琵琶湖の9倍です。
628年、玄奘はインドに経を求めに行きますが、この地図を見ても分かる通り、カシュガルからガンダーラに向かえば、インドは直ぐなのですが、なんで、わざわざ、天山山脈を超えてイシククル湖畔のスイアーブにむかったのか。
この時、玄奘は高昌国王に引き止められると、「三日間絶食して、どうしても行く」と行って、天山を超えたのです。その先にあったのは西突厥です。玄奘が面会した統葉護可汗は、タルドウ(達頭)が大陸で残した孫でした。日本の伝承記録では、ウマヤドは622年に死んで、蘇我馬子の娘の刀自古郎女が、今の善光寺の場所に、冥福を祈る祈祷所(大本願)を造ったことになっています。
629年、スイアーブに来た玄奘を西(タシケント、サマルカンド方面)に送り出した後、統葉護可汗はオジのパガテルに殺されます。そのパガテルは唐と関係を強化しますが、西突厥の国人から支持を得られず、統葉護可汗の息子、つまり、タルドウの曾孫を支持する人間に殺されます。その後、西突厥はその拠点を、亀慈(クチャ)の東の焉耆(エンギ)に移すことになります。
このころ(630)、ムハンマドがメッカを奪回し、イスラムが急成長。その前の628年に、ビザンチンのヘラクレイオスがペルシャのホスロー2世から「磔刑の十字架」を取り戻しています。これがキリスト教の十字架信仰の始まり。
日本では、630年に第一回の遣唐使が始まり、舒明(田村皇子)は、隋書では「リカミタフリ」と書かれました。
玄奘がインドから戻って、644年に洛陽に入った時、唐の太宗李世民は、高句麗攻めの準備をしていました。日本では、蘇我蝦夷・入鹿の時代で、643年に鎌足がいきなり登場して神祇官になり、厩戸の実子、山背大兄は、入鹿に追い込まれ、自害。それを嘆いた皇極(宝皇女)が、勅命で信濃善光寺の伽藍を造らせた。
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